元日コンのあとからずっと考えてること。

※オンリー担について触れています。



わたしは剛さんのオンリー担だった。しかもどちらかと言えば光一さんアンチ寄りだった。今言っても結構な確率で信じてもらえないが、高校時代を知ってる友人たちは口をそろえて「いつからそんなに光一くんのこと好きになったの?」と不思議がる。わたしの場合はグループ活動全てを否定していたわけではなかった。KinKi Kidsの曲は大好きだった。だけどあまりに剛さんの「声」に魅せられすぎていた。熱風邪のようなものだったと今では思う。剛さんの声に魅せられその他の声はいらなかった。だったらソロを聞けばいいだけの話なのにキンキにもそれを求めた。だからわたしは今ここに書けない発言を光一さんにたいしてしたこともある。

たぶん、初めて「アプリシエ」を聞いたときだと思う。一番の剛さん全ソロをうっとりして聞いていたら二番は光一さんの全ソロだった。でもいつもと違った。「この声が好きだ」とその時初めて気づいた。真摯に一音一音と向き合うその声が好きだと、少し甘いその声が。たった数秒の出来事で見える世界は変わった。二人だから、二人の歌声だからキンキの楽曲が映えることにやっと気づいた。二人の声だからその詩の世界が完結するのだと。高3のときのことだ。

それからは転がるようにキンキにはまって行った。Lコンのときまでにはキンキ沼の住人となっていたが受験生だったので参加はできなかった。Twitterでレポを漁るわたしにある友人が言った。「キンキのコンサートに行きたいの?」と。もちろん、と答えたら友人はなんか怖くない?と言った。剛派光一派でバチバチしてそうじゃん、と。その当時私はキンキ担の友人がいなかったし、嵐と違いツイッターでどのように情報を拾えばいいのかわからず、エゴサするとまあなかなかの地雷を踏んでしまうことが多かった。キンキコンの雰囲気がどんなものかも知らなかったし「確かにそうかもしれない」と思った。

元日の剛さんの発言からずっとこの高校時代の一コマを思い出している。友人が放ったのイメージが世間一般のイメージとしてあることも現実だ。そして剛さんを好きすぎて光一さんを攻撃してた自分がいたことも事実だ。KinKi Kidsはそれぞれが個々に強い別のベクトルの魅力の光を放っていると思うのだ。その光に目を当てられると見えるはずのものも見えなくなる。その魅せられている人の隣に立っている唯一でさえも。昔の自分を恥ずかしいとは思わないが、殴りたいとは思う。剛さんに魅せられた感情を否定したいとは思わないが、光一さんに向けた発言はできることなら取り消したい。いくら片方に魅せられたからといってやってはいけないこともある。


言い訳のようになるが今はKinKi Kids堂本剛堂本光一も欲張りなほどに大好きだ。ソロだってみたい。だけど、今の私は2人が立つステージが見たい。2人が作るステージが見たい。ハガキを買ってこようと思う。自分の気持ちをちゃんと伝えようと思う。あの日からオンリー担やアンチの人に食ってかかってる人も見るがその暇があったらハガキを買ってこようと思う。きっと剛さんが言ったのはそういう争いをしろってことではないと、KinKi Kidsすべてを好きな人が偉いという話ではないと、私は勝手にそう思うから。きっと今、私たちと別の視線で彼らを見て、分かり合えない人はまだたくさんいる。その人から見ればわたしたちも分かり合えない人なのだ。過去の私がそうだったようにあまりに強い魅力を目にあてられてその光こそが正義で唯一であるとそう思い込んでいるのだから。私たちから言うことはその人の耳には雑音でしかない。あの頃の友人の「光一くんだって素敵だよ」って発言が耳に入らなかったわたしのように。そしてきっとその人自身が自分で気づかない限りその思い込みはとけない。だったらその方面に目を向けるのはやめよう。

お前が言うなと言われるかもしれないが、今は心からKinKi Kidsの20周年イヤーが素敵なものになることを祈っている。私はそこに負の感情を入れたくない。見たくないものには蓋をして生きていく、KinKi Kidsを好きになってファンクラブに入会した時そう決めた。だからもう明るく祈ることにした。行動することにした。最近彼らを好きになった、15周年の憂いも知らない、しかも最初はアンチ型という最悪の私だけど。今はとても大好きで仕方ないKinKi Kidsの一年が最高の一年になりますようにと祈っている。その思いはきっと、昔からのファンの人と変わらないと信じてる。